多田野本神社

多田野本神社

~多田野本神社 ~

逢瀬町は河内源氏が本拠地とした河内国の余野川周辺に地形が似ていることから、それにまつわる地名が各地に名づけられたとされ、逢瀬町には逢瀬川を挟んで河内(こうず)と多田野(多田野本神社)があるが、これは河内国と余野川を挟んでその西側にある摂津国の多田院や多田神社の位置関係にあたるとみる説がある。

1143年(康治2年)、源義家の家臣鎌倉権五郎景政が東北征伐の際にこの地に住んでいた盗賊や大蛇をことごとく退治したことに感謝した村民が、景政やその一族を合わせて祀った。そのため「ごろうのみや様」とも呼ばれている。

その後は武運長久の神としても知られるようになり、太平洋戦争前までは、ここで祈願した村内の出征兵は誰ひとりとして死傷することなく全員無事に帰還したといわれている。

また、景政がこの地の災害を防ぐため、山中の霊石に神霊をうつして五穀豊穣を祈願したと伝わることから御霊櫃峠とのつながりも深い。

 

 

  • 多田野の鍬柄舞田植踊

江戸時代は元禄年間、今から凡そ300年前に始まったと伝えられます、多田野の「鍬柄舞・田植踊り」についてご紹介します。

古くは、「鍬柄舞」と「田植踊り」は、本来別々の舞と踊りであったようですが、現在では、多田野の「鍬柄舞・田植踊り」と並べて表記しております。

集落の若者が、旧正月11日を中心とした数日の間、各家々の門(かど)や、土間(どま)(玄関)で舞い踊られました。

江戸時代の元禄年間発祥と伝えられますが一時途絶え、凡そ200年前の文化・文政期に地元の医師、山野井(やまのい)泰(たい)順(じゅん)の尽力により復興されと言います。

昭和の初期までは古い踊りの形態をとどめておりましたが、終戦後に一時中断、現在の舞は昭和40年に当時の「逢瀬(おうせ)町(まち)民謡保存会」の増(まし)戸(と)治(じ)助(すけ)氏らの努力により再び復活した舞です。

以前は、家々で舞いをして、その家から銭(ぜに)や丸餅・切り餅などがあげられ、お供えの多い家には鍬柄舞・田植え踊りの外に各種の手踊(ておど)りを座敷に上がって披露しました。(注:銭(ぜに)と金(かね)は異なる。「金銭(きんせん)」)頂いた銭や餅は、貧困で正月餅の用意できない家庭に銭とともに全て配分して回りました。各戸からあげられた餅や金銭は、集落の貧困家庭に施すなど、福祉的な役割も大きかったようです。

内容は、田主(たぬし)様(地主)から田植えを依頼された人々が、「寸劇(すんげき)」と呼ばれる滑稽な掛け合いを取り入れた演劇と、早乙女(さおとめ)による「田植踊り」とで構成されており、五穀豊穣・家内安全を祈るもので真に「農始祭」には相応しいものと思います。

現在では、逢瀬地区の「賀詞交歓会」、逢瀬中学校生徒自身による学校文化祭などで披露されております。

photos【多田野本神社】

 

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